私だって私みたいな奴にうっかり助言してしまったらと思うと怖くて仕方ない

 リツイート、現在は「リポスト」になってしまったが、呼称はどうあれ、これがやたらと多いアカウントというのは、大抵同意できるリポストが少なく、もちろんリポスト自体の数が多いのだから同意できないものも多くて当然ではあるのだけれど、比率としてあまりに納得できない発言ばかりを肯定的に拡散していることが多く感じる。相手の感覚がずれているのか、私の感覚がずれているのかは分からないが、両者の間に深い溝があることだけは確かだろう。そして、どちらがより正解に近いかは別としても、溝の先の景色をわざわざ確認しに行くのが精神衛生上好ましくないこともまた確かなはずなのだが、どうにも気になってしまう。

 そんな同意しかねる拡散された発言が、また一つ目に入ってきた。それは、授かったアドバイスが既に実践済みなうえ、効果も得られなかった場合の返答が「教えてくれた方法に、私が試したものが入っていて、間違ったことを試していたわけじゃなかったんだと思って安心しました」というものだった人に対し、品格や人間性といったものに感銘を受けたという旨の内容で、さすがに私も嫌な奴だとは思わない。しかし「間違っていたかどうか」を決定できる材料は会話の中に存在しないはずで、安心できる理由が分からない。アドバイスしてくれた相手への敬意を第一とした言葉なのだとしても、アドバイス自体が誤りだった場合、そのままにしておくのは相手にとって良いことなのかどうか。そもそも効果が得られていないのは、大まかに考えて「実践方法に不備がある」「自分には当てはまらない方法である」「根本的に誤った方法である」という三つのうちのいずれかであり、どれが原因なのか究明できていなければ返答自体不可能に思える。

 結局、直接アドバイスを求めること自体が互いを深く傷つける可能性に満ちているわけであり、だとすればより徹底した人格者というのは、書籍や各種媒体における記事、講座等の不特定多数に向けて開示された情報の中から自分に適していそうなものを、これまた様々な情報を参考に熟考して選び抜き、効果が得られない場合もまた同じ手順で調べ上げ、どういう結果であれ自分だけが責任を負うような人物を指すのではないだろうか。

 また、アドバイスする側も、少なくとも「相手には当てはまらない」「根本的に誤り」の二点においてはしっかり責任を負う覚悟を持つべきだと思うし、その覚悟がないのであれば軽率にアドバイスなどしない方が良いのかもしれない。それでもやりたければ相手が人格者であることを対岸の私も願うしかない。争いの火の粉はどこへ飛んでくるか分からないのだから。