「乗る」ことを求める世界に気分が乗らない

 乗馬の経験がある。と言っても、観光施設にもなっている牧場で客なら誰でも乗せてもらえる体験コーナーを利用したことがあるというだけだ。

 そんなほのぼのとしたアトラクションのある観光施設など、私には恐ろしく似合わないのだけれども、遠足やら社会見学やら修学旅行といった学校行事で行きたくもないのに連行される場合が多々あって、この乗馬体験も小学校の遠足のプログラムに組み込まれており、抗う術を知らない哀れな小学生だった私も渋々馬の背に跨るはめになったのだった。

 渋々とは書いたが、別に馬そのものが嫌いなわけではない。現在放送中の朝ドラ『なつぞら』の舞台となっている十勝に生まれたため、近所(都会的な感覚だと、あまり「近所」とは呼べない距離かもしれないが)には馬を飼育している家もあったし、なにより馬という生き物の造形は美しいと思う。苦手なのは牛のほうで、どうにもあの涎まみれの口と舌が好きになれず、しかもどういうわけか牛を飼育している家の人間とも折り合いが悪い場合が多く、たぶん自分はそういう星の下に生まれたのだろうと勝手に考えている。ウマは合うがウシは合わないのである。

 しかし、ある程度の距離をとって眺めているだけならともかく、実際の乗馬となると話は別である。物心つく前から『カメラが捉えた決定的瞬間』シリーズに親しんできた私にとって、乗馬の先にあるのは、振り落とされるか踏みつけられるか、あるいは蹴り飛ばされるか引きずり回されるか。命を落としたジョッキーやカウボーイの映像を何度も目にしているので、喜んで馬に跨ろうとする同級生たちのお気楽ぶりが腹立たしいくらいだった。「おめえさんが陽気に跨ったせいで馬が驚いて暴れ出して私が踏み殺されでもしたら、どう責任をとるつもりだ」と、さすがに声には出さなかったものの、後に書かされた作文には記しておいた。

 考えてみれば、馬に限らず、私はどうも何かに「乗る」ということが苦手らしい。乗り物も全般的に苦手であるし、「宇宙船地球号」なんて言葉すら好きになれない。その分、調子に乗ったり図に乗ったりということがなければ良いのだろうけれど、いくら自分がそのつもりでも他人から見て「図に乗ってる」と思われてしまえばそれまでなので、いかんともしがたい。

30パーセントの賑やかな人たち

 とあるアンケートによると、平成と令和をまたいだ今回の大型連休の過ごし方として「自宅でゆっくり過ごす」と答えた人が全体の約70%を占めたらしい。もちろん、アンケートに答える層とはどんな類の人たちなのかという問題もあるし、答えた通りに過ごしたかどうかもわからないけれども、単純に考えれば、ニュース等で目にした大渋滞や大混雑を巻き起こしていたのは、残りの30パーセントに分類される人たちなのである。70パーセントのおとなしい(?)人たちが決起すれば撃退可能だとも言える。おとなしいから今まで決起しなかっただけで、実際に戦闘となればきっと勝てるのだから、30パーセントの賑やかな人たち(文字通りのノイジー・マイノリティー?)は、あまり私たちを刺激しないほうが良いはずである。

 思い返してみれば、オリンピックやワールドカップの中継だって、視聴率は40パーセントくらいだったはずで、ナイツがネタにもしていたように60パーセントは見ていないのである。これらの放送を見ていないと知るや、馬鹿にしてきたり非国民扱いするような者もいたが、もし多数派に属して安心しているつもりなのだとしたら、考えを改めてほしい。決起さえすれば、勝機はこちらの側にある(はず)。

 しかし、いかんせん決起する気のないおとなしい人たちであるから、戦闘などという野蛮な行為も不得手としている可能性が高い。なのでここはひとつ、こっそりと戦闘準備を整えておくことを推奨する。ノイジー・マイノリティーたちが発するノイズに紛れて、着々と肉体を強化し、作戦を練り、来たるべき決起の日に備える。なにか様子がおかしいなと30パーセントのうちのさらに5パーセントくらいの人間が勘付いた時にはもう遅い。多数を占めた反乱分子がノイズを内側から食い破っているだろう。

 などと煽動するようなことを言っているが、私自身はかかすり傷すら負いたくないので、日々の鍛練を続けたとしても、その目的はいかにして無事に逃げのびるかであり、決起に関しては闘争心を眠らせているだけの方々に任せたいなと無責任に考えている。

桜の樹の下には伯父が切り落とした枝たちが埋まっている

 父とたいへん不仲だった伯父が素人の雑な剪定をしたために『ジョニーは戦場へ行った』並の悲惨な姿と化した我が家の庭の桜の木だが、その惨劇から30年以上経ち、年号も二つまたいでなお、伯父の魔の手を逃れ、こっそり生き延びた一本の枝にのみに花を咲かせ続けている。桜を瀕死の重傷に追い込んだ伯父は、令和という名称すら知ることなく平成の中頃にこの世を去り、父と同様、伯父とは犬猿の仲であったという近所のシンキチじいさん(仮名)は、健気に花を咲かせる桜を見て「最大の復讐は長生きすることだな」と言って笑った。

 ここ数日、やたらと風が強く、乾いた畑の土が吹き上げられて砂嵐のようになり、時にはつむじ風まで巻き起こるなか、シンキチじいさんは元気に自転車で一帯を散策しているようで、我が家の桜に負けず劣らず、しぶとく長生きすることだろう。生誕以来、健康だった時間が極端に少ない私などは、なんとかそのしぶとさにあやかりたいものだが、むしろ近づくと生気を吸い取られているのかもしれない。いずれにせよ、不健康のままでは、たとえ長生きしたところであまり嬉しくはないし、苦しめば苦しむほど憎むべき輩を喜ばせることにもなるわけで、そろそろ何らかの幸運を引き寄せたいところである。方法はさっぱりわからんが。

 そういえば、地元の小学校へ続く道の脇には、シンキチじいさんが植えた桜の木もあったのだった。忘れていたのは、花を咲かす前に力尽きてしまい、現在は切り株すら残されていないからである(折れてしまう前に、綺麗さっぱり取り除かれてしまった)。こちらは我が家の桜とは違い、シンキチじいさんが自然の流れに任せすぎたせいだと言われている。

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平成最後の日に家から一歩も出なかった昭和生まれの療養中男性が令和最初に考えていること

 『わたしに××しなさい!』というタイトルを最初に目にした時、「わたしにチョメチョメしなさい」だと思ってしまった昭和生まれほぼ平成育ちの美月雨竜氏は、なんの義務があるわけでもないのに自身の人間性や風貌からはほど遠い、いわゆる「キラキラ映画」と呼ばれるタイプの作品も可能な限り鑑賞しているのだが、さすがにみうらじゅん先生のように映画館で堂々と「『先生! 、、、好きになってもいいですか?』一枚!」と宣言できるだけの度胸はなく、映画版『わたしに××しなさい!』もDVDの発売を待ったため、映画館で「『わたしにチョメチョメしなさい!』一枚!」などと宣言して二重三重の恥をかくことはなかった。『世界残酷物語』や『グレートハンティング』の再上映ならば、周りの客と保護色で同化できる自信もあるのだが、キラキラ映画の場合だと存在しているだけで周りに迷惑をかけているような気分になるので、何度か挑戦した映画館での鑑賞においては、真剣な女装レベルの武装で臨んでおり、映画を観賞する前から気力も体力も削がれまくっているため、そう何度も行えるものではない。

 さて、『わたしに××しなさい!』でも主演を務めていた玉城ティナさんが蜷川実花監督の映画『Diner ダイナー』に出演していることが発表され、予告映像も公開された。しかし、NHK教育『シャキーン!』でのコーナー、「イチゴ」「ウサギ」「オッケーお茶の間」に癒され続けている身としては、予告映像で玉城ティナさんが宙吊りにされていたりするのを見た時点で心が痛んでしょうがなく、しかも、原作も既読なせいで、映画でどの程度の設定変更があるのかはわからないけれども、おそらく色々と大変な目に遭う(もちろん、役の中でだけれど)ことは容易に予想できてしまい、さらに胃が痛い。ゆえに、作品の出来不出来に関わらずなるべく早く結末を知って「いずれにしてもフィクションだから」と安心したいのだが、映画ファンが多いとは言えない地元では、どうも公開される気がしないので、きっと「なるべく早く」とはいかない。

 もっとも、「いずれにしてもフィクションだから」なんてのは当たり前の話だし、出演者やスタッフが様々な媒体で元気に情報を発信している時点で私があれこれ気を病む必要性なんかどこにもなく、むしろ自分の精神状態のほうを心配するべきなのも分かっているのだけれど、分かっているからといって「気持ち」という厄介な存在を制御しきることは困難であり、あまり意味のない私のもやもやした気分は実際に映画を観賞するまで続くことだろう。この作品での体当たり演技が活躍の場を広げることになってくれれば嬉しいし、私も気を病んだ甲斐があったと鑑賞後に思えることだろう(甲斐もなにも、私がなにか後押ししたわけでは全くないのだけれど)。

ダイナー (ポプラ文庫)

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劇場版 わたしに××しなさい! [DVD]

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平成くんは後輩です。

 みなさん、お元気ですか? 私は病気です。

 母親が私を腹に宿した状態で事故に遭い、誕生前から既に死にかけていたせいか、産み落とされてからも死にかけ癖が抜けず、比較的平和だと言われる国で育ったにもかかわらず、今日に至るまで何度も命を落としかけ、やけになって自ら命を放り投げようとも考えたくせに何故かしぶとく生きのび、では結局生きていて良かったのかと言われれば、そうとは思えなくなる方の記憶が邪魔をして、良い方に分類される記憶の輝きはあまり届いて来ず、なんとか呼吸だけは続けていたけれども、いつ頃からか吸い込んでも思ったように酸素が入ってこないような感覚が続き、今になって地球上の空気が彗星について行ってしまったのか、なんてことを考える余裕も当時はなく、目につく9割近くの人間の頭を粉々になるまで叩き潰したくなる衝動だけがふつふつと湧きあがり、自力で抑え込めるうちになんとか病院へ行ってみたら薬を処方されて、服用してみたらどうにか少しは落ち着きを取り戻し、充分な酸素を取り込むことも可能になったのだけれど、昨今の平均寿命から考えれば、まだ人生の半分が過ぎ去ったわけではないはずなのに、どうにもこれまでと同じだけの時間を生きられる気がしない。

 なんやかんやで口にするものの味に多少の喜びを感じられる程度には回復しているはずだが、油断すれば薄くないはずの酸素までが薄く感じられ、目につく7割の人間の頭を叩き潰せばすっきりするんじゃないかという妄想に囚われたりするのだけれども、誕生日に偽りがないのであれば、どうにか平成という時代よりは長生きできたようで、しかしながら、それを喜ばしいことと考えても良いのかどうかは疑わしい。いいや、もう寝てしまえ。

「宇宙は生命の数だけ存在する」

 「平成のゲーム最高の1本」の第1位を『クロノ・トリガー』が獲得したらしく、これを機に映画化なんて話も出てきたりするかもしれないけれど好きな作品だけに不安のほうが大きく、でもたつき監督だったら観てみたいな、なんて思うものの、たつき監督には『クロノ・トリガー』よりも『ジーンダイバー』のリメイクを先に手掛けてほしく、その際はエンドクレジットにすかんちの「YOUYOUYOU」は有りだけれどクリマカーユの「がんばってダーリン!」は無しの方向でお願いしたいです(劇中で誰かが聴いていてイヤホンから少し漏れてる、とかなら大丈夫)。

 鳥山明先生の描くキャラクターがあまり好きではないと知人等に何度か話したことがあるのだけれど、ゲームとしての『ドラゴンクエスト』は好きだし、『Dr.スランプ』と『クロノ・トリガー』に関しては絵も気にならず(「クロノ」に至っては、気にならないどころか鳥山先生の絵だから良いのだろうと普通に思える)、つまり自分は『ドラゴンボール』(および筋肉の強調されたタイプの鳥山先生の描くキャラクター)が苦手なだけなのではないかと気づくまでに結構な時間を要してしまい、そうこうしている間に色々あって心を病んで実家に逃げ帰ってきてしまったものだから、精神を更に疲弊させるような人間から遠ざかることはできたものの、数少ない楽しく会話できる方々とも遠く離れてしまったため、誰が聞いてくれるわけでもないのにこうしてブログに書き散らかしているうちに平成も終わろうとしているようである。大きな環境の変化というものは、精神衛生上好ましくない場合のほうが多く、なるべく世間の動向は気にしないよう心掛けているものの、気になるくらいに「平成が終わる、平成が終わる」と世間様が騒ぐものだから、意思の弱い私には目を背け続けることもできず気になってしょうがない。いっそ、自らお祭り騒ぎに加わってやろうかとも考えたが、お祭り騒ぎへの参加だけは強い意思をもって拒み続けること約30年、今となっては参加する方法の見当すらつかない。

 とりあえず選挙も終わって清き一票を願う電話やら車内演説の声やらが飛びこんでくることもないので、おとなしく家の中で『ジーンダイバー』を観賞し直したり『クロノ・トリガー』を再プレイしてみたりしながら令和を待つことにする。

クロノ・トリガー(特典なし)

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ジーンダイバー DVD-BOX

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「自然は一巻の書物であり、その著者は神である」(ウィリアム・ハーヴェイ)

 先日、目覚めてすぐ耳に飛び込んできたノートルダム大聖堂の火災というニュース。日本で平成という時代が終わろうとしている、そんな時のまさかの火災、かつてパリを燃やせと命令したヒトラーだって困惑するかもしれないなどと考えていると、今度は夕張市の石炭博物館でも火災(元夕張市長の鈴木直道氏が次期北海道知事に決まったばかりなのに、なんとも皮肉なものである)。どうも運命の神様は次の時代までに処分すべきものの選択をお間違えになっているのではないかという気もしてくる。しかしながら、神の御心は計り知れないものである。

 私がノートルダム大聖堂を初めて知ったのは、おそらく4歳くらいの頃に観た『カメラが捉えた決定的瞬間』においてのことで、聖堂の先端部分に熱気球が引っかかり宙吊り状態になる映像が紹介されていた。幸い、乗員は無事に救出され、聖堂にも目立った破損はなかったのだけれど、歴史ある貴重な建造物の近くで熱気球を飛ばすというのは、勝手なイメージにはなるが、なんだかフランスらしくないと感じる。熱気球が飛んでいた理由については触れられていなかったので、詳しいことは分からないけれども。

もっとも、番組の情報を信用するならば(当時の衝撃映像特番における事件・事故の発生日時や場所の情報はあまり正確ではなかった)、この事故が起きたのは1986年の7月4日らしいので、まだノートルダム大聖堂世界遺産には登録されていなかった。ノートルダム大聖堂と周辺の文化遺産世界遺産に登録されたのは1991年のことなので、私の観た特番の放送時期でも、まだ登録されるかどうかの瀬戸際くらいだったかもしれない(ちなみに、1988年に発売されたビデオ作品『ザ・ショックスⅣ 禁断の最終楽章』にも事故の映像が収録されている)。とはいえ、随分と大胆な催しだったことには変わりないだろう。

 大聖堂には既に再建のための寄付金が多く集まっているようだし、大聖堂と比べればどうしても規模は小さくなってしまうだろうが(大聖堂のほうは既に「もう一個建てるのか」なんて声があがるほど寄付金が集まっているとか)、石炭博物館でも修復を願う声はあがってくるだろう。しかし、どこまで元の形に戻すことができるのだろう。もしも技術的に修復が不可能であったならば、せっかく集まった寄付金もかえって切なくなってしまう。そうならないことをせめて祈る。祈ったところで事が良い方向へ向かうわけではないこともわかっているけれど、祈らずにおれないという気持ちもまたどうしようもないものである。

パリは燃えているか [DVD]

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