「甘えるな」は、誰に向けて言うべきか

 『ミュージックフェア』を見ていて、何百回と聴いているはずの「ルビーの指環」の歌詞テロップ「くもり硝子の…」を「くもり、しょうこの…」と読んでしまったのは、このところ『聲の形』(大今良時)を読み過ぎているせいであろう。

 というわけで、今回もまずは『聲の形』に関して、いくつか(ゆえに、以下は一応ネタバレ注意)。

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・ビッグフレンド永束君に関して



 『聲の形』をまた最初から読み直していたら、第36話「欲しかったもの」で永束君が「雇った」子供達のことが凄く気になってきた。あまり熱心の他の人の感想や考察を読んでいるわけではないけれど、その点についてはあまり触れられていなかった気がする。まあ、お菓子で買収した時だけなら、たしかに、それほど気になることもないのだけど、その後の喧嘩シーンでもあのエキストラ少年たちが一緒に来ていて、しかも「いけー永束さん」などとはやし立てていることに関しては、もう少し「おや?」と思う人がいてもいいんじゃないかと思う。あの短期間で、高校生が若干やんちゃそうな小学生たちとあれだけ打ち解けるって結構すごいことだと思うんだが。

 永束君って、そういう才能というか魅力のある人だってことなんだろうか。だとしたら、本当に映画監督に向いてるのかもしれない(余談だけど、私はどうしても永束君が爆笑問題の田中さんと被って見える。『ポンキッキーズ』の爆チュー問題関連のイベントでも、田中さんに子供たちがなついていたらしいし。まあ、映画監督を志していたのは太田さんの方なんだが)。


 ところで、硝子は「自分が将也を不幸にしてしまっている」と考えているわけで、また、その思いは将也以外の大事な人たちに対しても、おそらくかなり強くあるのだろうけれど、逆に硝子と出会ったことで、かなりはっきりと良い思いをしているのが永束君だと思う。

 映画制作の会議段階で、「そうか彼女はこの物語のキーパーソンだったのか」と永束君自身も言っているように、硝子がいなければ永束君はビッグフレンド石田と友達にはなれず、佐原や結絃とも知り合えていない。植野や川井から「キモい」だの「チビ、デブ」だのと罵られるタイプであることから、おそらく女の子と一緒に遊園地で楽しく遊ぶなんてことも硝子がいなければ経験し得なかったと思われる。ゆえに、硝子の「呪い」の無効化に関して、実は石田よりも永束君のほうが解くための強い鍵を持っているのではとも考えられる。「君がいたから、オレはこんな良い仲間に会えたんだ」という(まあ、空中分解してしまったけれども永束君は少なくとも将也や結絃たちと出会えたことを後悔はしていないだろう。現状況下であっても佐原らには連絡をとったわけだし)。

 ただ、それで硝子が「あなたのことなんかどうとも思ってない、気持ち悪い!」と拒絶でもしたりしたら、それはまた某スレッドあたりが荒れに荒れるのだろうが、さすがにそれはない。はず。多分。いち西宮硝子ファンとしては、そう望みたい。ちなみに、もし仮に『聲の形』がまぎれもない「ラブコメ」だったのだとしたら、将也×硝子よりも、ある意味、永束×植野という展開の方が「ラブコメ」としては王道ではないかと思う。もっとも、およそ「ラブコメ」とは呼べなくなった現状からすれば、そんな「王道展開」に発展するのは、これまでの流れや大今先生の発言などからも察するに、ちょっと考えにくい。しかし、そうなると、むしろ永束君こそが……。永束君が彼女を幸せにしてくれるのなら、将也も納得して、かぐや姫の「妹」の主人公みたいな心境になれるのではなかろうか。「あいつは俺の友達だから たまには3人で 酒でも飲もうや」……とまあ、勝手な予想はこのくらいにして。

 しかし、やっぱり「永束」という名前は、単純に「永く束ねる存在」ということなんじゃないかと思ったりする。ビッグフレンドに期待を込めて(ちなみに将也は、ビッグフレンド永束の幾多の助言や忠告にもっとちゃんと従っておけば、こんな悲惨なことにはならなかったのでは、という説もあります。あと、永束君の好きな映画って、どんなのだろう?)。

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・インガオーホーなんてクソくらえ



 第38話「疑心暗鬼」における、救世主(になり損ねた)植野のセリフであるが、他の考察ブログでも指摘されているように、この作品において「因果応報」という価値観を持っている者は、あまり肯定的に描かれてはいない。

 筆頭は、硝子の父親とその両親(硝子にとっての父方祖父母)である。実のところ、私の個人的な最大の願望は、この硝子の父とその両親が落ちるところまで落ちた姿を拝むことなのだが、この作品がそういったものを目指してはいないことは理解しているつもりなので、そのあたりは真っ白な仮面を顔に張り付けた真柴君の登場する二次創作(『聲の形』+ジョージ・A・ロメロ『URAMI 怨み』)や、某「物語シリーズ」の文房具戦闘美少女一家を崩壊させた宗教団体を壊滅させたらしい素敵な詐欺師さんの作品を越えたコラボの妄想で我慢することにする。

 それにしても、父方家族の因果応報の理論は正に「クソくらえ」な理論で、川井が倒れている将也を尻目に言った「インガオーホー」が可愛く思えるほどである。だいたい、仮にすべての不幸が本人の過去、あるいは前世の悪行による因果応報なのだとしたら、「耳の聞こえない娘を産むことになる女性と結婚するという不幸」(心苦しいが、ここでは、あえて不幸と呼ぶ)が舞い込んだのも、父親の過去や前世の悪行による因果応報なのではないかと傍から見れば思ってしまうわけである。実際、あの麻原彰晃は『朝まで生テレビ』に出演した際、「例えば、わたしは目が見えません。こういうふうに生まれついたのも、前世のカルマのためです」と語ったことがある。竹熊健太郎は、このような麻原彰晃のある種のディベート能力を「“ひらきなおる”ことでマイナスをプラスに転じる能力」と評していたが、硝子の父方家族は、こうした能力さえ皆無の低俗極まりない悪役でしかない。

 そういえば、「前世」「因果応報」と言えば、西原理恵子がタイでインド人の家具屋とケンカした話を思い出す。家具を注文したら、そのインド人がまったく注文と違うものを持ってきて、しかもまったく気にせず組み立てはじめるので文句を言い続けたが、「あなたと私は前世が悪かったからこういう事になったわけで、気にしてはいけません」と言ってインド人は仕事を終えて去っていってしまったという話である。

 私にインド人の知り合いはいないし、インドに行ったこともないし、インドについて専門家のように語れるほど詳しく調べたこともないから、これが大多数のインド人の価値観なのかどうかはわからない。確かなのは、西原先生が依頼したインド人家具屋は、前世や因果応報的な価値観を持っているということなのだが、このインド人が硝子のクソったれな父親家族と異なるのは、「あなたと私の前世が悪かった/気にしてはいけない」という結論を出しているところである。つまり現世に関してはあなたも私も悪くない/どうしようもないのだから、諦めてそのまま生きましょう、レット・イット・ビー、といった感じである。同じ因果応報という価値観を持っていても、もしあの父親どもが、このインド人のような考え方であれば、硝子に障害があるとわかっても、それは自分たち全員の前世が悪かったのだからしょうがない、レットイットビー、で済んだことだろう。

 随分とテメエ勝手な「因果応報論」に基づいて生きていたがゆえに、この父親一族は、私の妄想の中で、真っ白な仮面をつけた真柴君にコードを首に巻きつけられてビルの窓から放り投げられたり、陰気な詐欺師にどん底まで叩き落とされたあげく、妙ちきりんな怪異もどきの病気まで宿されたり、人皮のマスクを顔に張り付けたチェーンソーの大男に切り刻まれたりするはめになったわけである。

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・なぜ私は植野を許すことができないのか?



 あの場面での「インガオーホーなんてクソくらえ」というセリフには、ちょっとシビれたし、「良いキャラクター」であることにも同意できるのだが、それでも私は、植野という登場人物をどうしても「許す」ことができない。元々、いじめる側や(無自覚な)健常者側の差別的感情の言わば代弁者的な面を強く持つキャラクターでもあり、第44話「害悪」における、硝子へのリンチじみた暴行により、かなり人気投票的な意味でも株を落としている植野だが、たしかに私自身もあの場面にかなり強い嫌悪感を持ったし、「いじめっこの論理」の典型のような植野の台詞を肯定する気にはならない。また、元々(これまた人気投票的な言い方をすれば)「硝子派」であったことも無関係ではないのだが、もっと何か、根本的なところで植野というキャラクターの行動とその理由に対し、許しがたいものがあるのだと思う。端的に言えば、硝子に肩入れしていなかったとしても、植野を許すことはなかったであろうと思わせる何かがあるということだ。

 それが何かと言うと、植野に対して好意的な意見の中に、たとえば第44話における暴行に至った理由が、暴力行為自体は否定しながらも「(恋愛感情的な意味で)将也を思えばこその行動だったわけで、気持ちはわかる」というものが結構みられるのだが、おそらく私は、そういった意見とは真逆に、恋愛感情的なものが一連の行動原理であるからこそ、植野を許すことができないのだと思う。

 植野を見ていて私が思い浮かべるのは、西尾維新の『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』に登場した葵井巫女子と貴宮むいみである。この作品もまた語り出すと止まらなくなるので、かいつまんで記せば(ゆえに当然、モロネタバレ有。)、主人公いーちゃんに惚れた葵井は、よりいーちゃんと親密になるおそれのあった友人・江本智恵を殺害してしまう。そして、その件を暗にいーちゃんから断罪された葵井は自殺。葵井と親友同士であった貴宮は、「お前さえいなければ」といーちゃんを殺害しようとする……という流れなのだが、彼女たちに対する主人公・いーちゃんの言葉は、残酷なまでに倫理的だ(以下、『クビシメロマンチスト』本編から、いーちゃん人類最強の請負人哀川潤の会話を引用)。


「……だから殺したっていうんですか? その程度の動機で? ばかばかしい。そんな理由で殺されるなんて、殺される方はたまったもんじゃない」
「その通り、たまったもんじゃないさ。だからこそお前は許せなかったんだろう? その程度の下らない理由で人間一人を惨殺した葵井巫女子をよ。そして責任をとらせたってわけだ」
(『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』366P)

「……でも、葵井は罪の意識で死んだんじゃないかもしれないぜ。お前に追い詰められたから、お前に本気で嫌われたから、お前を敵に回しちまったから、それで希望をなくして死んだのかもしれない」
「もしもそうだったなら余計に腹が立ちますね。人を一人殺しておいて、それなのにその程度のことで悩み死に至るなんて。彼女には犯人になる資格すらなかった」
(『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』369P)


 私はいーちゃんの考えに、ほぼ同意している。対して『聲の形』の植野の行動原理は、基本的に将也への恋愛感情によるものだろう。第45話「無駄だった?」において、硝子への暴行後に植野が漏らした「石田が今日の私見たら絶対…絶対ないわコイツって思われる…」という台詞に、それは如実に現われていると思う。小学校時代の硝子へのいじめに比較的積極的に加わっていたのも、将也と行動を共にするといった意味が大きいだろうし、再会後にいきなり硝子の補聴器を奪い、将也に「昔みたいにぶんなげて遊ぶ?」と訊くのも同様だ。「西宮さんがいなければ、みんなハッピーだった」「西宮さんに壊された」という繰り返されるこの主張は、『クビシメ〜』における貴宮むいみの「あんたさえいなければ」とほぼ同じであろう。

 つまり私には、植野が「自身の情欲の障害となるものに対して、ひたすら排他的/加虐的な存在」として映るのである。まずもって、おそらく植野が「逃げ」だと考えているであろう硝子の姿勢を私は「逃げ/甘え」だとは考えてはいない(少なくとも、今回の自殺結構の理由に関しては、以前のブログでも書いているように、甘えた逃避行為ではないはずだ。その理由を植野が理解しているかどうかは別として)。たしかに、「硝子派」である私でも、硝子に何一つ非がないかと問われれば、「硝子ちゃんに非なんてない! 硝子ちゃんは天使だ!」と盲信的な返答をすることはできないが、たとえ硝子の行動や姿勢が、小学校の頃から高校編の現在に至るまで、同情の余地のない愚かなものだったとしても、せいぜい将也を命の危険に晒したことに関して理性的ではいられなくなったと思われる、あの暴行に対し「植野にも同情の余地がある」と少し思えてくるだけだ。その他の、将也を自分に振り向かせるために他の誰かに対して加虐的な行動を起こしたことを、将也への思いゆえ、という理由で許せるわけではない。

 そもそも、将也が植野に「振り向かない」理由は、直接的には硝子ではない。高校編においては、植野の思考そのものに同意できていないわけだし、小学校時代に関しては、将也に異性への意識というものがまだあまり芽生えていないからだ。逆に、硝子が植野にとって恋愛的な障害=恋敵となったのは、「たまたま」硝子が将也に対し、深く反省させるような振る舞いをしていたこと(具体的に言えば、落書きされた将也の机を毎日、人知れず拭いていたことなど)が原因なわけで、(これは植野自身も反省しているように)植野自身が将也のフォローに回れなかったのがいけないのである。

 また、「西宮さんによって壊された」というのも、やはり勝手な理屈である。そもそも、硝子が転校して来ずとも、あのクラス、特に将也という少年があのままでいられたようには思えない。そうでなければ、作品内において島田や広瀬が「度胸だめし」から距離を置こうとする展開に、あのような不吉さを演出する必要はあまりないと思う。それに、硝子へのいじめに関しても、将也のスクールカースト大転落は、大きな学級裁判に至るようないじめ方を続けた/放置したことが原因であり、いじめっこ側の心情に敢えて寄って考え「硝子の心の傷の重さ」には目を瞑るなら、徹底した無視や陰口、筆談ノートへの落書きなどで止めていれば、元より事なかれ主義的な面の目立つ担任ゆえ、あそこまで(将也や植野にとって)悲惨なことにはならなかったはずである。


「あなたのことが好きだから自分のことも好きになれ、なんてのはただの脅迫ですよ。残念ながらぼくは相互主義者ではないし――情欲で他人を殺す人間なんて憎悪する」
(『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』369P)


 相手に「思い」が届かないのなら、それは、もう諦めるしかないのだ。「思い」を諦めたうえで、それでも付き合う必要があるのなら、それこそ匙加減、距離感、処世術的な振る舞いの問題であり、どれだけ理性的でいられるかだ(ここでも、やはり「諦められる者の強さと諦められない者の弱さ」の問題が絡んでくる)。もちろん、人間がなかなか諦められないものだということも分かる。諦められない弱さを糾弾しようとも思わない。しかしながら、諦められないことを他人のせいにしたり、その葛藤を理由に他者を加虐する行為は憎悪するということだ。まあ、そういう感情に陥ること自体はしょうがないとは思う。私にだってあった。だが、落ち着いてから私がそうなった感情に関して抱くものは、恥と嫌悪でしかない。将也的に言えば、「殺したい、あの頃の自分」だ。

 ひょっとしたら「必要以上」と他の読者から思われるほど、私が植野に対して冷淡なのは、たとえ頷ける主張がいくつか見られるにしても、結局彼女は、自身の情欲が実らないことに対して他者に八つ当たりしているような面が多いからだろう。それこそ、私としては「逃げではないのか、甘えではないのか」と思うのだ。



 それに対してぼくが抱いた答はたった一つ。
 巫女子ちゃんに送りたかった言葉は唯一だ。
 それは多分、
 智恵ちゃんがぼくに向けた言葉と同じ。
 そしてそれは、
 確かに、ぼくにこそふさわしい言葉だった。

 『甘えるな』。 
(『クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』379P)





追記

 植野を許せずとも「良いキャラクター」だとは思えている理由は、おそらく植野が「将也のため」ではなく「将也のことが好きな自分のため」だということを、基本的に隠していないからだろう。第44話の暴行シーンに関して、「台詞を替えたら印象が変わるのではないか」と考えた人がいて、少年漫画的な台詞(「これはクリリンの分!」的なもの)に変えてみた画像を見たが、むしろ私はそちらのほうがより嫌悪感を持ってしまった。お前のやっていることは、誰のためでもなく、お前自身のためだろうということだ。その点、実際の植野は、そういうタイプの「言い訳」はあまりしていない。



聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709

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 若干恥ずかしい点(特定のキャラクターに対して、○○派だ、というようなことを告白するのって、私にはちょっと恥ずかしい)が見受けられる文章になったので、恥ずかしいついでに、好きだと言うのがちょっと恥ずかしいグループの代表格であるワム!の中でもとりわけ恥ずかしいこの曲を(特に邦題がね…ウキウキとか…)


Wham! - Wake Me Up Before You Go-Go


 ちなみに、『聲の形』に関しては、完全に「硝子派」な私ではありますが、あらゆる漫画のキャラクターの中で最も私が推している、完全に好みのタイプですと言っても良いのは、石黒正数それでも町は廻っている』の紺先輩です。


聲の形(4) (講談社コミックス)

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