「僕はせめてほんの少しでも奴らが悔やみ苦しむ姿が見たいだけなのかもしれません」

 体罰パワハラ、セクハラ、長時間労働、理不尽な校則等々、時代の流れによって見直され、ようやく非とされてきたものも沢山あるが、なかなか消えないのは「自分たちの時代にはなんの問題もなかった」といった旨の声。しかし、本気であのままで良かったと考えているのなら愚か過ぎて話にならないが、自分は耐えるしかなかったのに、これからの世代だけが被害を受けずにいられるのは悔しい、私だって今のような価値観の社会に生まれていれば平穏に過ごすことが出来たはずだ、若かった頃の私の時間を返せ、こういった行き場のない思いが抑えきれず、社会の変容を手放しで喜ぶことができない気持ちなら分かる。分かるというより、まさに私自身がそんな悔しさを鎮められずにいる者の一人だ。不謹慎だとは思いつつ、「教え子の復讐によって煮殺される体育教師」、そんな事件が起きやしないかと微かに期待してしまうのも、上記のような理由からだろう。

 法や倫理を無視できるのであれば、かつて私のような者を苦しめてきた古い体質の人間たちに痛い目に遭ってもらう、あるいは見合った賠償をしてもらうのが手っ取り早いのだろうが、そもそも既に死に逃げされている場合も多い。やり場のない怒りや悔しさは、やり場がないまま増幅される一方である。

 そんな私でさえ、現在を生きる若い世代からすれば、自分たちよりも古い世代の一人でしかなく、たとえどれだけ理想的に振る舞えていたとしても、さらに古い体質の人間たちから受けてきた苦痛がしっかり癒えるほどの恩恵を受けられるとは思えないし、そもそも理想的に振る舞えている自信などない。「上の世代」というだけで報復の対象とならぬよう、なるべく目立たずに生きるほかない。

 そのような息苦しさが自分の至らなさや愚かさによるものなのだとすれば、それはそれで諦めもつきそうなのだが、ならばあいつやそいつが平気な顔のまま寿命を全うしたように思えるのは何故なのかと、結局やり場のない怒りや悔しさを説き伏せることはできないのである。