『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(64)

 連絡先を知っていても気軽に連絡できる知人などいないのだが、だからといって「どうしてお前にそんなにお金が必要なの?」などと会ったこともない親戚から説教される理由もないはずで、穏やかなアショロアの化石に打ち明けたところ、彼は時代にそぐわぬ隔離病棟に入れられたと電話で知らされた。化石のほうは「歯を磨かない子供の相手をするのが辛い」と言い、社会科見学の類が減った昨今は助かっているらしいことが理解できた。子供の湿った手で触れられるのは子供だった頃から苦手なので、私は皮膚を削り落とすような意識をもって念入りに手を洗ってから博物館を出て羆の不在を確認した。

 2週間ぶりに祖父の家を訪ねると、7歳の頃に見た祖父が金魚の水槽を洗っていた。2匹の金魚は庭に置かれていた鉄製の洗面器に避難させられていたが、1匹は野良猫に引っ掻き出され、全身に泥を纏った状態で苦しそうに跳ねていた。すぐに水中へ戻したが、それから5年以上生きたのは不気味ですらあった。金魚は子をもうけ、飼いきれなくなった分は小学校に寄付という形で厄介払いされた。倫理観に歪みが生じていた頃の潤一が木工ボンドを水槽に流し込んだこともあったが、テラピアたちと異なり、すべての金魚が金魚なりの寿命を全うした。大量発生したコウガイビルも金魚たちが喰い尽くしてくれたのだ。所業の発覚した潤一は教室で泣きながら許しを乞うたが、誰もが許すとも許さぬとも告げず、触れるのが面倒な記憶として処理した。むしろ充分に話を訊いたとも思えないまま、悪趣味な謝罪会見のような場を設けた例のフットボール選手の母親でもある担任への嫌悪感が金魚の寿命を僅かに削っただろう。猫や狐と違い金魚では怨念の力が弱いせいか、この件がきっかけで担任が不幸に見舞われたという話は聞かない。いくつか要因となった例は確認できたが、金魚の怨みも届いてほしいと私やお嬢だけでなく潤一さえも願っていたので、金魚煎餅の粉を担任の愛車の心臓部に詰め込む役をキックが買って出た。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(63)

 安眠とまではいかなかったが、首を吊りたくなるほどの悪夢に苛まれることは減ったため、外に出る機会を増やしてみたのだが、普段の生活の中でふと自ら首を締め付けたくなるような記憶が甦ってくることが増えた。その都度、頭を振って対応したが、骨粉の風味を食事中に感じて、限界が近いことを悟った。テレビではコーラを飲んだ医者が「水死体の背は伸びますか」と尋ねてくるCMが繰り返し放映され、種明かしの前に小児科医だと気づいた私に「K氏あたりなら感心してくれるかもね」とお嬢が言った。撮影現場で小児科医が緑色の甘いゼリーを注射器に詰め込んだものを見せてまわったのも知っている。小児科医が持参したゼリーは、子供向けの病院食として利用されるもののなかでは、最も安価な商品で、メロン味と称されているものの、どちらかといえば幼児向けのメロン風味歯磨き粉に近い味をしている。呼吸器官の疾患を持つ子供が好む傾向にあると、3歳の頃の主治医だったオーツ先生から聞かされた。

 オーツ先生が紛失した聴診器の片側は、巡り巡ってキネマユリイカ駅前の若い医者の病院に持ち込まれていたのだが、それを知ったきっかけは、直接関係のない薔薇の大量窃盗事件のニュース映像だった。顎の右半分を崩れたウエハース状に砕かれた店主が血を吐き飛ばしながら犯人を罵倒している映像だ。「医学的に見れば腹腔及び内臓破裂による即死です」と誤って別の事件の被害者に関する意見を述べる若い医者が首に下げていたのは、紛れもなくオーツ先生が片側を紛失した聴診器で、思わず確認の電話をかけようかとも思ったが、わざわざ恥部を指摘する必要もないし、そもそも連絡先など知らなかった。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(62)

 白樺は中学と高校の校歌でも歌われるほど一帯に群生しており、血を流す個体がいたところで子供であれば驚くこともなかった。白樺に群がるクワガタを採り過ぎた小学生が小麦の乾燥工場の奥に沈んだままでいるという噂が流れ、町内の小学生たちが肝試しに行くたびに猫の死骸を見つけて埋葬していた。クリハラは乾燥工場に沈んだ小学生の同級生だったらしく、実際には野球部の兄に禿山へ追い立てられたまま戻ってこなくなったのだと話していたが、今なお捜索されている気配はない。餅を飲む爺さんがデスモスチルスの歯だと言い張る石を拾ったこと以外に特筆すべき出来事は以降も起きていない。

 禿山から戻ってこなくなった小学生の兄は、その日以来、裸同然の姿で学校行事に参加している夢を頻繁に見るようになり、毎晩のようにうなされているらしい。夢の中の彼は、当たり前のように全裸や全裸に近しい姿で振舞っているものの、気付かれれば現実のように大恥をかくことは理解できるのだという。私は宿泊を伴う学校行事のたび、いかにして食事と入浴を他の者に気づかれぬうちに済ませるか頭を悩ませていたせいか、彼の見ている悪夢の切実さが多少は理解できる気がした。しかし、理解を寄せ過ぎれば自分も似たような悪夢に苛まれるため、彼の家の最寄の川から滝石を拾って神棚に祀っておいた。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(61)

 しかし、ギャグ漫画のような走り方のダクリュウ先生は、拗音も促音もない世界の住人だったが、寿司屋のトシさんの「表へ出ろ」の一言で、さらに児童数の少ない学校へ逃げ去った。倒れたクレーン車の下敷きになり、頭皮を抉られ、骨が露出してなお、自ら指示を飛ばせるような人間には敵わなかった。最近になって定年間近の姿を隣町の広報誌で目にしたが、不健康な老い方をしているように見えたので、おそらく走り方が祟ったのだろう。自分が創設した野球クラブが死者まで出したことも知らないわけではないはずだが、教員を続けているあたり、その件に関しては責任など感じていないのかもしれない。

 ダクリュウ先生の住んでいた教員住宅には、全ての花壇にひまわりが植えられていて、そのうちの一本には児童の誰かが撃ち込んだエアガンの弾がめり込んでいた。白いBB弾は、一つだけ紛れ育った色違いの種のように埋め込まれ、どこの学級にも存在するあぶれ者たちから、しばらくの間慕われていた。しかし、ひまわりをエアガンで撃った児童の存在よりも、色違いの種を問題視する声は、この土地においても少ないとは言えず、教員たちの手によってBB弾は摘出され、ひまわりは手厚く葬られた。その日、裏山の白樺をのこぎりで裂いたミハソは、患部の出血にも似た赤黒い汁が流れるのを目にしたと話した。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(60)

 ようやく素麺をふたすすりできるほどに回復したのは、「魔法のような美少女」と称された彼女の姿を目にしてからで、かといって元来の食の細さが改善されるわけではなく、成人式を放棄して10年経っても、これといった思想的理由もないまま、カット野菜と果物と胡桃によって身体の大部分を形成していた。東京住まいのナムのお兄さんは、私とは相容れぬ食生活を続けていたようで、幼少期の記憶とは一致しない姿で就寝後に会いに現れた。あまり品を感じられない黄色いスポーツカーをインキーさせていた記憶が強すぎたものの、離れの風呂場のガラスを割ったのが彼ではなくヤギ親父であることは覚えていた。自身の組んだバンドの強化合宿という名目で、わざわざ東京から私の家の離れまで、夏休みの間、住み込んでいたのだが、なぜかナムのお兄さんとは特に関係のなかった近所のヤギ親父も頻繁に出入りしていて、彼らが「ヤギのおじさん」と呼んだこの男のことをどう思っていたのかはいまだ訊けずにいる。

 当時、家と離れの間には、よく大きな鬼蜘蛛が巣を張っており、蜘蛛嫌いの父は古い言い伝えにもめげず毎朝退治するのが日課だった。その頃、私が出会ったのは、フランク・ザッパの姿で井上陽水の声を発する神様で、蜘蛛については何も言わず、『トリストラム・シャンディ』を薦められただけだった。丁寧に育てられたカリフラワー農家の息子である、幼少時に辛うじて友達と呼んで差支えの無い存在だったオカチ君は、同じ神様から“かっこいい歌”を教えてもらったが、それがTelevisionの「Marquee Moon」だと分かったのは、お互いが中学に入ってからのことで、周りに知られるわけにもいかなかった。少なくとも私に過去の恥部を無にできるだけの力は最後までなかったし、オカチ君に余計な迷惑をかけるのも本意ではない。マサヤの弟でさえ、出まかせに口ずさんでいた自作曲「あけてくれ」のことは、小2の頃にはすっかり忘れ去っていて、他人が世に出したところで盗作と訴えることもなかっただろう。実際、高校レベルのスポーツ程度しか評価できるだけの知識も実力も持たない世界では、試しに筒井康隆ショートショートを自作だと偽ってみた時も、教師ですら気づいた者はおらず、そもそもさしたる関心すら示さなかった。拗音が書けなくても、笑顔で体育に臨める者が威張っていられる世界だ。

Marquee Moon

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『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(59)

 奴が無事に家へ戻った数日後、私が見た池には魚の姿は見当たらず、成人男性の親指ほどの大きさの真っ白いなめくじが水面を蠢いているだけだった。祖母の手入れが行き届きにくかった遠い庭の大きな石を持ち上げると、あの真っ白いなめくじはよく見つけたが、池のものほど大きなものはいなかった。カマドウマと同じく、薄めずに撒いた農薬が影響していたのかもしれないが、池で泳いだどこかの子供の腕になめくじが食いつくようなこともなく、池に染み渡った毒となめくじの持つ毒の複合作用でナンシーが死んでしまうような事態を招く心配はないようだった。テラピアが消えても困ることはないのだ。

 小学3年の遠足で級友たちが釣ったテラピアは、教室の水槽でしばらく飼育されていたが、餌として与えられた給食のコッペパンがふやけて浮くようになると、そのふやけたパン屑と見分けがつかないような死骸となって漂いはじめ、全滅に気づくのも遅れ、私たちは長いこと死骸と共に授業を受けていた。既に幼い頃は「カムイ」だったデパートも「エリック」と名を変え、子供たちの愛した「紫のきしゃぽっぽ」も撤去されており、死骸の腐臭を消すための洗剤も入手するのが困難であったため、ただでさえ食の細い私の体重は適性値に届くはずもない。それでいて、体育の授業が削られることもなかった。人間を含めた動物の死骸によって大きく気分が害されることは少なかったが、魚類の腐敗には耐性がつかないままだった。水気が多すぎるのが問題な気がして、水死骸の類は全般的に受け付け難い。怖さと悍ましさは別物というのは、お嬢も同意することで、受付け難い思考によっても食欲は削がれた。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(58)

 K氏と5年ぶりに電話したのは、そういった毒蟲まみれの記憶とは関係なく、ストロマトライトに魅せられた少年を追うテレビドキュメンタリーでK氏の名前をスタッフクレジットの中に発見したからで、共に嫌悪していた社会派気取りの出鱈目ドキュメンタリーに参加する同期生の近況を探る目的もあった。私は『WAX 蜜蜂テレビの発見』をダビングしたVHSを彼女に貸したこともあり、多少の責任を感じていた。しかし、K氏が彼女の動向を注視しているわけもなく、そもそも注視する必要がある程の成果はないようで幸いだった。彼女の活動もあらかじめ決められた顧客たちの為のものでしかないのだ。彼女と彼女の師事するドキュメンタリー作家が主張するほど、蜜蜂も女郎蜘蛛も不穏な動きなど見せておらず、ましてや尻尾の再生しないカナヘビが、かつて私の住んでいたアパートの跡地に現れてなどいない。上階の雑な住人ももう居ないので、ゴキブリたちすらとっくに住処を移していることだろう。

 母方の祖父と仲の良かったオアフの爺さんの家で、やけにカマドウマが目につくようになったのは事実だが、それは隣の通称・マサヤ35代目が薄めずに撒いた農薬が原因だった。オアフの爺さんは、腹いせに私が貸した『腐っていくテレパシーズ』を大音量で響かせながら農作業をおこなうようになった。私は指に力を込めて自分の顔面をゆっくり触れまわり、頭蓋骨の形を透視する趣味が、すっかり趣味も癖も通り越し、ある種の強迫観念のようになっており、自分の頭骨が野晒しになっている情景を幻視することすらあった。残念ながら適切に火葬される姿を想像することが難しく、処方薬が増える恐れもある。マサヤ35代目の弟は私と同期生で、7歳の夏に家族の誰にも告げず近所の池まで魚を見に行き失踪を疑われ、当時の父兄や教員が総出になって探し回ったこともあったが、奴のように人生の終わりも忘れられるほどの性分であれば、これほど悩み苦しむこともなかったのだろうが、そうなりたいとも思わない。