なんてったって四人……いや五人はアイドル!――世界にはアイドルが必要だ(真子晃一『コズミックアライブ』考察/感想)

 12月25日に発売された同期の星・真子晃一先生の小説家デビュー作『コズミックアライブ』。雪まみれの北国ゆえ、さすがにフライングゲットとはいかなかったが、注文してあった2冊は、ありがたいことに発売日に我が家に届けられた。

 当初の予定では、今日のブログは、単行本最終巻を読み終えたうえで改めて一から『聲の形』を考察し直そうと思っていたのだが、思いの外、この再考察が難航していること(まあ、ほとんど他の人が語り尽くしている感もありますしねえ……。硝子信者による硝子信者のための硝子単推し文章を書いても、饒舌ではあろうが、気持ち悪くなるだけだろうし……)、そして『コズミックアライブ』が、身内贔屓の面も多少あるとは認めつつも、予想以上に面白く、現在なお若干の興奮状態にあるため、ならこの勢いのまま、『コズミックアライブ』の感想/考察記事を書きあげてしまおうと決断したわけである(『聲の形』の最後の考察は年明けに書きます)。

 アイドルとロック、そして「宇宙」まで絡めた物語を、笑いのツボや感動ポイントがそれなりに近い(そうじゃないと、9年近く一人の人間と繋がりを保つことは、コミュニケーション能力に致命的な欠陥を持つ私には大変困難なことである。事実、映画学校在籍時には、ゼミの関係から真子先生よりも長い時間共同作業をしていた同期生がたくさんいるのだが、既に繋がりが切れている者が大多数である)真子晃一先生が書いたのである。そりゃ、私が楽しめて当然だ。

 というわけで、真子晃一『コズミックアライブ』考察/感想記事「なんてったって四人……いや五人はアイドル!――世界にはアイドルが必要だ」(以下、ネタバレ注意)。

http://over-lap.co.jp/bunko/cosmicalive/
(『コズミックアライブ』特設サイト)

「目まいのするようなアンタの船で おいらを旅に連れ出しておくれ/五感がすべて抜け落ちてしまったんだ 両手の感覚もないのさ/つま先がしびれて歩けないんだ このブーツの踵がさまよい出すのを待ってるのさ/どこにでも行くよ 姿が消えてもかまわない 自分のパレードをするまでね/踊りの呪文をかけとくれ アンタに降参すると約束するよ」(ザ・バーズ「ミスター・タンブリン・マン」)



 ライトノベルでアイドルものは向かないと言われていたそうだが、『コズミックアライブ』は実に真っ当(?)な王道ライトノベルだった。それは、「ワケあってバンドを解散してしまったアイドル嫌いの主人公・井上草太が、密かに恋していた同級生・桜ノ宮羽純が所属することになった“宇宙でライブ”を目標とするアイドルグループ・銀河のメモリーズのマネージャーになる」という物語の大枠だけでなく、文体、散りばめられたパロディとギャグ(この辺りは、少し、おかゆまさきを思わせる)といった要素全てにおいてである。だが、何より心地よいのは、随所から感じられる、真子先生のアイドル愛、そして90年代の良質のJ‐POPへの愛だ(「〜に対する愛」なんてことを、作品の評価であまり口にしたくはないのだけど、『コズミックアライブ』に限らず、映画学校時代から真子先生の作るものからは、良質のJ‐POPの香りが濃厚だった。後で余談として語るが、80年代終盤〜90年代前半あたりのJ‐バラードは大嫌いなのだが、J‐POP/ポップ・ロック系なら心地よく聴けるものは沢山ある。なんとなくだが、真子先生の作品からいつも感じる音は、堂島孝平である)。特に、ポケットビスケッツは結構重要な存在になっていると思う(実際、AKBを模したと思われる作中のアイドル「YYH148」の正式名称は「イエロー・イエロー・ハッピー・ミリオンフォーティエイト」。ポケビのあの大ヒット曲が由来であることは明らか。主人公・草太のかつてのバンド仲間で毒舌残念美女の名前が「千秋」なのも、おそらく……)。草太の前に立ちはだかる困難は、言うなればハリウッド的な王道ストーリーテリング(主人公が目的達成のために奮闘する。大きな障害が一つの場合もあれば、次から次へやってくる場合もある。分かりやすい例は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)なのだが、『ウリナリ』において、次々に解散を迫られるような課題を与えられてきたポケビ、そしてブラビの姿を思い出さずにはいられない。あるいは、『ASAYAN』の時代からモーニング娘。を見守ってきたファンも似た思いを抱くかもしれない。『アイドルマスター』や『あまちゃん』以前から、日本のアイドルファン、ポップミュージックファンは、疑似的にであれ、間接的にであれ、「アーティストの成長を見守る/自分達も一緒に育つ」というインタラクティブな関係性にあったと言っても良いと思う。こう考えてみると、たとえ活字で歌やダンスのライブ感を表現することが困難だとしても、アイドルとライトノベルは、別に結びつき難いものではなかったのかもしれない。

 良質なJ‐POPの香りと新旧アイドルへの愛(ピンクレディー山口百恵松田聖子おニャン子クラブから2010年代的な数々のアイドルまでがネタになっている)に比べると、もっと「ハード」で「コア」なロックファンからすれば、ロックに関するモチーフには物足りなさを感じるかもしれない。作中で伝説のバンドとして登場する「ダディ&マリー」はJUDY AND MARY、日本最強のロックユニット「エーズ」は、当然B’z(真子先生はB’zの大ファンであります)だが、どちらもBOØWYですらロックとは思えないという層からすれば、良くも悪くも「J‐POP」の枠のアーティストである。草太が一時在籍していたというロックンロール研究部には、かなりエキセントリックな先輩が在籍していたようだし、彼のかつてのバンド仲間である向井浩志(名前のネタ元は、向井秀徳稲葉浩志だろう)あたりなら、もっとコアな、たとえば裸のラリーズやガセネタ、あぶらだこや奇形児くらいは聴いていそうな気はするが、そこまでの言及はない。洋楽勢で名前が挙がるのも、ストーンズメタリカ、そしてレディー・ガガ(レディー・ママ)くらいである。私も「ロックでアイドルで宇宙というのなら、もっとデヴィッド・ボウイをネタにすべきだろう」なんて思ったりはした。しかし、そのことがはっきりと不満かと言えば、そうは感じない。単純に、そこまでニッチなロックに言及しなければいけないような作品ではないし、技術や才能の問題に関わらず、高校生バンドに今時、大槻ケンヂの『グミ・チョコレート・パイン』ほどの闇を求めるのは野暮ってもんだろうとも思う。現実の世界で非常階段がBiSや初音ミクとコラボしていたり、大友良英が『あまちゃん』の音楽を担当していたり、ジャニーズは遥か前から様々なアーティストから楽曲提供を受けているのだから、アイドル愛を深めるだけで、実はコアなロックのすぐそばまで歩み寄っているのだ(そもそも、ビートルズがアイドルだったことを考えれば、ロックとアイドルは相容れないどころか、ほとんど同義なのだ。「宇宙から歌と踊りを届けて、世界を平和に」というのは、まるでビートルズの「アワ・ワールド」での「愛こそはすべて」だ。そして、この日本という国は制度的に、はるか昔から、日本史的なレベルで「アイドルの国」である)。



 さて、発売までのカウントダウン企画やドラマ付PVだけを見たり聞いたりしていた段階では、割と姫の単推しでいたのだが(それを見透かされたのか分からないが、ありがたいことに姫役の岡恭子さんがツイッターでフォローしてくださった)、読了後はすっかり銀河のメモリーズのDD(アイドルファン用語。「誰でも大好き」の意)と化してしまった。もう、メンバーだけでなく、草太と嫉妬シフトロック(草太のバンド名。真子先生のかつてのブログ名でもあったはず)、ヒカリPに愛太郎先生(ビジュアルは、ほぼミッチーでしたね。ちなみに私は、ミッチーの古参のファンです)まで含めたDD。ただ、DDは単推しに負けがちである。実際、作品自体も「誰かひとりのために頑張った時、人は輝ける」という台詞があるように、「単推しの強さ」みたいなところがあった。宇野常寛によれば『ダークナイト ライジング』も「単推しVSDD」の話で、バットマンが当初ベインに押されるのは、バットマンゴッサムシティのDDであるのに対し、ベインはミランダの単推しであるからだという。宇野常寛は、月刊サイゾー濱野智史との対談で「ベインは、単なるロリコンヲタ(笑)でも僕は率直に言って、「推しメンがいると、こんなに強くなるのか!」というカッコよさを感じてしまったんですね」とも語っていた。上記対談の中では「今、人が何にであれば本気になれるのか」というテーマが挙げられていたが、『コズミックアライブ』における「誰かひとりのために〜」という台詞は、正にこの「単推しの強さ」であろう(でもミック・ジャガーと4000人のベッドパートナーの話を考えると、ミック大先生は偉大なる「DD」と言えなくもないのでは、とも思う。なんたって、デヴィッド・ボウイもベッドパートナーの一人らしいし。いや、4000人から「単推し」されてるミックが凄いと考えた方が良いのか?)。

 この「単推しかDDか」という話をもう少し続ける。宇野常寛は以前、「AKBの強みは何か?」という質問に対して「48人もいれば一人くらい好きな子いるだろう」というようなことを言っていて、物凄くシンプルだけど確かにと思った。ただし、これは逆に言えば「48人もいれば一人くらい嫌いな奴もいる」ということにもなり得て、実際私は、AKBとその関連グループのメンバーの中に、可能な限りその活動を把握して応援したい子もいれば、テレビに姿が映ると即座にチャンネルを替えてしまうくらいに嫌っている子もいる。ゆえに、AKBほど大きなグループだとDDという立場でファン活動をするのは、それこそ神の愛みたいなレベルでなければ無理という気がしてくる。5〜6人のグループならまだしも「DDとしてのヲタ活動は無理がある」というのは、AKBだと特にそうなのだろう。だが、そもそも「単推し」や「DD」といった概念自体がないであろう、非アイドルファン(アイドルが嫌いというわけではなくとも)からすれば、AKBは良くも悪くもAKBという集団でしかなく、楽曲が好きになれない、システムそのものが嫌いといった理由を別にしても、とっつきづらい面はあるのかもしれない。

 そもそも、これはアイドルに限った話ではなく、どうも「単推し」という概念への理解というのは割と低いように思えて、「単推し」か「DD(誰でも大好き)」かではなく、「DD(誰でも大好き)」か「DD(誰でも大嫌い」かの二択しか持たない価値観というのが、随所で見られる。たとえば、安倍首相のある一つの発言に対して同意を示したからと言って、それは別にイコール自民党支持というわけではないし、安部首相万歳なんて話でもないというのは当然のことだと思うのだが、どういうわけか、そう捉えられがちな面はあって、これはそう捉える側に「単推し」の概念がないからかもしれない。ゆえに、アイドルのファン活動以外においても「DD」として活動し続けるというのは、(特に対象が大きなものであればあるほど)無理が生じてくるということになる。「誰か一人/何か一つのために頑張った時が一番強い」というのは、ひょっとしたら、ロマンティックな精神論ではなく、案外、身も蓋もない現実的な結論なのかもしれない。もちろん、「誰か一人/何か一つの為」というのは、その他のものに関する絶望的な無理解にも繋がるわけで、そこは『銀魂』紅桜篇の名台詞「余計なモンなんかじゃねーよ。(中略)ただ面倒くせぇだけじゃねーか、てめぇは。いろんなもの背負って頭抱えて生きる度胸もねぇヤツが職人だなんだってカッコつけてんじゃねえ」を心に刻んでおかないとなあ、と思う。その辺りのバランスをどうとるかってことくらいは、常にどこかで考えておかなければなるまい。「単推し(羽純への片想い)」でありつつグループ全体のマネージャーを務める主人公という設定は、実のところ、そんな「世界」に対する個人の在り方についての問題でもあるわけで、そんな点から見ても、身内贔屓と言われようが、私は『コズミックアライブ』を強く「推し」ていこうと思う。



 最後にちょっとした疑問。「一度再生すると消滅」するのは『007』ではなく『スパイ大作戦』の方だった気がするのだが……。ああ、あと千秋から感じる、私の腐れ縁と似た香り……。いや、千秋のように「可愛げ」を覗かせることすらないんだけどさ、あのお嬢は。やっぱり一番近いのは更生前の戦場ヶ原ひたぎ
 
 更についでの感想。『コズミックアライブ』を読むと、アイドルに対して「コール」をすることに抵抗がなくなるだけではなく、副作用(?)で、片岡愛之助を「ラブリン」と呼ぶことへの抵抗もなくなる(愛太郎先生の影響)。

コズミックアライブ (オーバーラップ文庫)

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 追記:オーバーラップ文庫のサイトで簡単なアンケートに回答すると読むことができる「あとがきのアトガキ」も必読。ちょっと危ないネタが入ってましたけどね。

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 ここで、ちょっと余談。真子先生の作品から薫ってくるのは、先述の通り、良質の90年代J‐POPの香りなのだが、もし薫ってくるのが、80年代終盤〜90年代のJ‐バラードの香りだったら、私は本を投げ捨てていたかもしれない。たぶん、草太がアイドルを嫌っている以上に私は、このテの音楽が嫌いである(以下、激しい嫌悪に基づいた、非論理的な罵詈雑言が並ぶ危険性があるので注意)。何がそんなに嫌なのだろうと考えてみると、どうにも、この時期のバラードというのは、バブル期に浮かれていた人間がその終焉を徐々に理解した時、大して反省もないまま、その終わりの雰囲気に合わせて「悲しむフリ」あるいは「悲しみに酔っている」ような印象を受けるのである。べたべたのメロディに、ありきたりな恋愛の歌詞。作中で草太はアイドル楽曲を「ありきたりな曲に夢とか希望とか恋愛とかを後押しする歌詞を乗せて歌わせる。創造性のかけらもない」と言っていたが、おそらくそういったアイドルポップスに対して、「自分はもう大人だから」というような嫌ったらしい感情を多少持ちながら、その実、楽曲はアイドルソング以上に創造性のかけらも感じられない(だいたい、山口百恵には宇崎竜童&阿木耀子松田聖子中森明菜には細野晴臣松本隆キャンディーズには千家和也ピンクレディーには阿久悠といったクリエイターが付いていたのだ。アイドルソングの歴史は、まったく「創造性のかけらもない」ものではないのである)。こういった、私の苦手とするJ‐バラードの一群(固有名は出さないでおく。まあ、ほぼ過去の人になった方々だが……。ちなみに、徳永英明は、ボーカリストとしての魅力が楽曲よりも遥かに上回っていたことで息の長いアーティストになった特殊な例だと思う。『VOCALIST』シリーズのヒットがそれを端的に表している。ついでに言うと、「愛は勝つ」のKANは、明らかにこういった安っぽさをネタ的に捉えて、あの曲をヒットさせている。なにせカップリング曲のタイトルは「それでもふられてしまう男(やつ)」である)、個人的に「バブル浮かれ組の哀しみごっこ」と呼んでいるのだが、これは、なぜバブルの象徴でもあったとんねるずみうらじゅんさんが言うところの「体育会系悪ノリの時代」)が今なお第一線で活躍できているのかという事にも繋がる気がしている。今のとんねるずに「体育会系悪ノリ」の嫌な匂いはあまり感じない。また、バブルガム・ブラザーズの「WON’T BE LONG」は、なぜどことなく悲しいメロディなのか、という問題もおそらく同じ次元の話だろう。下世話なほど悲しみを訴えかけるJ‐バラードよりも、浮かれているはずの「WON’T BE LONG」の方が悲しい。きっと、この曲は、少しだけ早く発表された「今夜はブギー・バック」なのだ。佐々木敦的に言えば「終わってほしくないものが終ってしまった喪失感」(これはこれで、その時代に思い入れのある者だけの話なのだが)。反省もなく悲しむフリは、実は反省もなく浮かれ続けることよりも、ある種の見苦しさを強く漂わすのではないかと思う。たぶん、それが、私が「WON’T BE LONG」や「今夜はブギー・バック」、あるいは浮かれ続けることの象徴としての「Bomb A Head」はアリで、悲しむフリにしか見えないタイプのJ‐バラードを嫌悪する理由だ。

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